Column
ここ数年、私が引寄せているのか、お会いする方々と介護のお話をする事が
とても多いです。
そういう年代になったのですよね。
超・高齢化社会となってちょうど働き盛りの世代が、仕事と親の介護との狭間で頭を悩ませたり、無理をする時代です。
私自身も年末に両親が同時に倒れ、急遽実家に泊まり込み、自分で食事をとれなくなった両親の介護に追われています。
幸いわたしには、介護が辛いとか嫌だという精神的な問題はないのですが、物理的な問題として体は1つですし、1日の中で限られた時間を介護と仕事に、どのように使ってゆくのかはテーマです。
そんな日々の時間に追われて、欠かした事のなかったボトルを体に塗るという習慣もかなわない状況が続きました。
毎朝、食事や身の回りの世話と、家事全般に、お昼の準備をしてから仕事に行かなくてはならない中で、私は少しづつイライラしてゆくようになりました。
そして、ある時、ようやく座って朝食を取ろうとした際に、酷くむせ込んで呼吸困難に陥る程、しばらくどうする事も出来なくなりました。
その時、寝たきりの母がベッドから心配そうに、
「痰が絡んだんだね?」と。
「違う、痰じゃない」とむせながら答えても、何度も
「痰を切る薬を飲んだら?」「楽になるよ」と、心配だったのでしょう。
ところが、日頃から全く薬を飲まない私は、母のすぐに薬を飲みたがる習慣を快く思っていなかった事も手伝って、
「疲れているだけだから、薬なんかいらない!」
と吐き捨てる様に言ってしまったのです。
その瞬間、母が黙ったまま悲しそうな顔をしたのをみて、私の心もとても痛みました。
心配してくれただけなのに。
自分で動けない母の方がずっと辛いのに。
どうする事も出来ない母を傷つけた。
と私自身もとても傷つきました。
どんなに長くオーラソーマを学んでも、体験を重ねて来ても、こういった咄嗟の反応を避けられない瞬間があるのです。
そして、私は自分で思っているよりも疲れているのかもしれないと痛感しました。
心と体は繋がっているので、精神的にはさほど負担を感じていなくても、体がついてゆかず、体が疲れ切ると、心も疲れてゆく。
カーペットを踏みしめた足のかかとに、チクッと鋭い痛みを感じて、思わず自分のかかとを見た時に、驚く程ガサガサに乾ききり、大きなささくれがめくれ上がっていました。
そのとき、そういえばボトルを塗っていないものなぁと、自分の疲れ切った手足をみつめて、「ありがとう、ごめんね」と、そっと擦ったのでした。
その夜、ボトルを塗る時間をとり、生命の樹の旅で途中となっていたB45のブレスオブラブというボトルのキャップを空けて、手足にくまなくたっぷりと塗りました。
するとみるみるうちに、肌が呼吸を取り戻したかの様に、美しく輝きはじめました。
両親には、せっせと塗ってあげていたのに、自分に塗ってあげる事を忘れていました。
そしてそれ以来、どんなに忙しくても、毎日必ず自分の体に、「愛の呼吸」のボトルを塗っています。
その後、苛立つという事は全くなく、同じ時間を楽に過ごせる様になりました。
その時に改めて、ボトルを体に塗るという事は、魂の成長を助け、私たちの最も必要としている部分に働くという意味を実感しました。
愛のギブ&テイクを意味するこのボトルは、再び愛の呼吸に寛げるように私をあたたかく包み込み、与える事と受け取る事のバランスに気づかせてくれました。
自分の体にボトルを塗るとき、愛を注ぐという行為そのものが私たちをどれだけ助けている事でしょう。
肌がガサガサにささくれ立つと、心までささくれ立ってしまう。
あるいは私のエネルギーの枯渇を、体がサインとして示してくれたのでしょう。
健やかな時には呼吸のように気がつかない事も多いボトルとの関わりですが、私たちが疲れ切ったとき、窮地に立たされた時には、ボトルの中に息づいた命は、即座にわたしたちの命に語りかけ、働きかけてくれます。
再び人生のなかで、愛の呼吸を経験してゆけるように。
美しい光を携えたボトルたちが、みなさんの人生にも愛をもたらしてくれますように。
Satya記