Column
■代表 かしむらかおりのコラムより「キリスト」
「オーラソーマ いのち から いのちへ その13 ~キリストが語りかけるグランディング~」
マスターボトルのなかに、ひときわ目をひく「キリスト」というボトルがあります。
クリアとレッドの鮮明なカラーコンビネーションは、ほかのペールカラーのマスターボトルのなかでも、よりいっそう存在感を放っています。
そして、このキリストのボトルに惹かれて、ワークした方々の多くが「とっても良かったから、続けてもう1本ぬってみたい」と言います。
なぜなら、「生きていることが楽しくなる」というのです。
私たちの足もとのレッドの領域にあるというアーススター。 そこに光を注ぐキリストのボトル。
アーススターには、この肉体とともに経験する予定がプログラミングされています。
このレッドのスターを思うとき、私がいつも感じるのは、どの瞬間も、母なる大地と私たちという存在を、このスターが愛の楔となってつないでくれているということです。
それはまるで、この身体を持って生きていくなかで、私たちがどのような試練に遭遇しても、あの軽やかだった天に自ら帰りたくなってしまわないようにグラウンディングを助け、たとえどのようなこ とが起きたとしても、私たちは決して大地から切り離されたわけではなく、真の自己と、その使命を思いだすための大切なプロセスであるということに気がついていけるように・・・。
つまり、私たちがこのレッドのスターに、より意識を向けて、この身体に存在して生きることの意味に目覚めていけたなら、私たちのこの生涯は、愛と感謝に満ちて、より自分の純粋な質を表現して、 生きていけるのではないかと思うのです。
かけがえのない自分の生涯を、すばらしいものにするのも、逆にひどくつまらないものや恐れに満ちたもの、あるいは腹立たしいものにするのも、すべては私たち本人に選ぶ権利が与えられています。
レッドは、私たちが歓迎できるものよりも、むしろ望まなかったと感じることに対して、どのように受け入れていくかという課題のなかで、私たちを育んでくれる色です。
この身体を持って、生きながら果たすと約束したはずの責任を受け入れていけるのか、それとも追いやり、遠ざけてしまうのか。
それは、私たちがこの地球という惑星と、どのように分かち合い、つながりを持っていくのかということとも関係してきます。
いったい、私たちはどのような状況で、そのことに気がついていけるのでしょうか?
自分のエゴが求める理想とは、そぐわない現実の数々。
なぜ、こんな親のところに生まれて来てしまったのだろう?
家を出たいのにお金がない。
お金のために働いているだけで、こんなことがやりたいわけではない。
結婚なんかしたくなかった。
忙しくて、自由がない。
上司が気に入らない。同僚が嫌だ。部下がどうしようもない。
好きでもない家族と暮らさなくてはならない。
安い給料で責任ばかり押しつけられて、割に合わない。
・・・などという言葉を、耳にすることがあります。
そして、そんなとき、いつもこのキリストのボトルが目に浮かびます。
私も、これまでの人生のなかで、似たようなことを口にした経験があります。
すべては自分が選び、決めてきた、かけがえのない人生のはずなのに・・・。
そう。
生まれてきた場所や親や、時代さえ。
少なくとも、この日本という国では今の時代、選択が許されているすばらしい自由が存在しています。
でも状況に関わらず人は、自分次第で、どこにいても即座に不自由な檻のなかに入ることもできます。
目の前にあることを、気に入らない敵として、怒りと不満にエネルギーを注ぐこともできますが、愛の基本的なエネルギーであるレッドに、苦しみの理解の光が注がれたときに、そこには、初めてピン クの無条件の愛が花開きます。
確かに、キリストのボトルは、シェイクするとレディナダの無条件の愛になります。
責任を押しつけられていると捉えるのか、責任が取れる自分を誇りに思うのか?
拒絶しながら生きるのか、開いて受け入れてみるのか。
このキリストというボトルを、もう一度ぬってみたいと思える理由は、きっとそこにあるのでしょう。
いったい、なにがこのわかれ道となるのでしょうか。
目覚めていくとは、どういうことなのでしょう。
私にはまだ目覚めを理解することなどできていませんが、ここ最近ようやくひとつ気がつけたのは、「感謝」ということでした。
それはグラウンディングするということとも、とても関係しているように思います。
目の前の状況に、人に、ものに、目に見えない存在にも、心から感謝を感じていけることがグラウンディングであり、目覚めへの第一歩のように思うのです。
苦悩を経験するほどに、私たちの生きることの意味に光が当たり、そこから新たなエネルギーが生まれます。
感謝の気持ちを持っていくこと、それが難しければ、とりあえず「なぜ、あの人に(この状況に)感謝しなくては、いけないの?」と思いながら感謝をしてみます。
感謝をするための理由を探します。
すると、そこにちゃんと感謝をする理由が見えてくるから不思議です。
気がつけば、キリストをもう一度ぬってみたくなっているかもしれませんね。